それでも「生きろ」と自分は言えるだろうか。

 福岡県筑前町の中学二年男子生徒(13)による自殺事件で、同級生の一部のグループが、一年前からたびたび、「死ね」「うそつき」などと生徒をののしっていたほか、自殺後も学校で「せいせいした」などと口にしていたことが二十一日、複数の関係者の証言で分かった。生徒を自殺に追い込んだいじめ行為の根深さを物語る証言で、福岡県警もこの情報を把握しており、近く同級生らから事情を聴くことにしている。

 証言によると、いじめは主に特定のグループによって繰り返されていた。その中の一人は一年前から被害生徒を「死ね」「うそつき」などと罵倒(ばとう)。「近寄らんめえよ(近寄らないがいいよ)」と、周囲に無視を呼び掛けることもあったという。生徒が自殺した十一日には、別のメンバーが教室で生徒の机をたたき、「消えろ」と大声でののしった。

 また、自殺後も「せいせいした」「別にあいつがおらんでも、何も変わらんもんね」「おれ、のろわれるかもしれん」などと校内で友人に話したほか、十三日の通夜の席では、笑いながらひつぎの中を何度ものぞき込む姿も目撃されている。

 相当尾を引いてるいじめ問題。でも昔からいじめなんてあったし、多分これからもずっと言われ続けるだろう問題。だけどどうしてこんなにやるせなくて、情けない気持ちになるのはどうしてだろう。子どもを叱れない、しつけられない親(というか子ども)。家庭で手前の子どもの世話も出来ないくせに、それを他人である教師やその寄せ集めである学校に放っておいて、問題が起これば全部学校のせい、教育委員会の責任、国が悪い政治が悪い。そんな論調ばかりで正直ウンザリする。
 大切な家族を亡くす悲しみなんて、当事者にしか理解できないだろうが、それとこれとは別。子どもが子どもを産み、子どもに預けてままごとでもするんですか。そんな中でいじめが起こらないわけがない。みんな起こるべくして起こってる。死ななくちゃいけなかった理由なんてない。結果に対する責任は、それに関わったもの全てにある。だけどいくら中身が伴わない大人子どもだったとしても、年齢重ねてる人間が、教師が、親がガキに教えてやれんでどうする。人に傷つけられることの痛みを、人を傷つけることの悲しさを、それでもお互いにぶつかり合うことに、思い合うことにどれだけ価値があるかを。

 自殺者が年3万人を切ったそうだ。切った?交通事故に遭う確率よりも高いこの数字に、さも良かったと言わんばかりに「経済が上向いてきたから」なんて理由がつけられていた。だけど、自分は誰かに死ぬななんて言えないだろう。またいつ死のうかなんて言い出すかわからない。それでも今は、死んでいられないし、大切な存在にも、一緒に生きて欲しいと心から願ってる。そう思わせてくれるのも、自分があの時死を選ばなかったのも、やっぱり親が居てくれたからこそだ。子どもが死んでからも他に責任転嫁する親に、子どもなんて守れるかよ。