ニッポン

自分はナショナリストかと問われれば、違うだろうなーと思う。愛国心だなんだと言われて久しいけど、愛国心ってなんだよ。公立学校の式典で国歌を歌わなかった教師が処分を受けたあたりから、愛国心の押しつけが目立つようになってきたのかもしれない。
意味ないだろうと思っていたけど、あれから数年経って、ワールドカップやら国際的なイベントやらで日の丸を見ることが多くなった。国歌を歌ったり、聞いたりすることにも抵抗がなくなったようだ。でも日の丸を振ったり、身につけている若者がナショナリストかというと疑問だし、いわゆるネット右翼と揶揄される極端な書き込みや発言を繰り返す輩にも、ナショナリズムがあるのかは疑問だ。
政府が言うところの愛国心は、日の丸や国歌や天皇制などと言った要素的のものだったり、シンボルだけを利用して、結局は民衆をコントロールするための道具に過ぎないのではないか。だからこそ民衆の心には響いて来なかったのではないだろうか。結局のところ愛国心というのは、それぞれ個人の中にあるもので、自然発生的な、自発的なものを言うのであって、強制されたりするものではないからだと思う。
自分が思うに、争うくらいなら自分が口をつぐんだ方が良いと思ったり、困ると笑みを浮かべてみたり、自分に関わりのある人間が罪を犯せば申し訳ないと思う、そういった「日本的」な人間性を自分のなかに見つけたとき、または一年という時間の経過の中で、「切ない」という日本人しか理解できないだろう、侘び寂び…そういった特有の価値観を見いだす時、その瞬間に自分は三島由紀夫の言うところの、日本という国に恋している自分に気付いた。
人間は自分の理解できないものや触れたことのない価値観に恐怖を覚える。恐怖は自然な感情だ。しかしそれを受け容れ、消化しようとしなければ、多くは排他、差別、敵視へと繋がり、最後には消してしまえ、戦争だ、となる。恐怖で人はコントロールできない。それは自己破滅を呼ぶことになると思う。極端だけど、アメリカという国が良い例だと思う。有色人種、セクシュアルマイノリティ、異教徒…異なるものは恐怖だ、だから銃を持て、自分の身は自分で守れ、目の前に居るのは敵だ…そうして今の、あの有様なんだろう。
戦後日本も「恐怖」という時限爆弾を持ち込まれ、アメリカという力に抱え込まれてきた。いつしか血となり肉となり分離させることも困難なほど一体化してしまった。恐怖が生む悲劇を行き着く先を、誰よりも知っているはずの日本人。自分が日本人として、日本に恋し続けるためにはどうしたらいいだろう。