はじまり

戦後民主主義の時代に生まれ、平和の意味も理解できない(平和でないことを知らないから)という、ある意味幸せで、ある意味不幸な自分は、選択肢なく強制的に「受け容れるしかない」この時代に、この国に、この社会に落とされた…と言った方がいいのかもしれない。
何も見ないふりをして、「人生は死ぬまでの暇つぶし」だと開き直って生きることも出来ただろう。だって今この瞬間が楽しければ、自分が満足出来ていればそれでいいじゃない。他人は関係ない。自分は正しい。自分最高!……
社会、集団、コミュニティというものを拒否し続け、「公」を無視して「個」を重視した徹底した個人主義の中で、いつの間にか孤立し、自己(ひいては他を)を理解し、認め、生きていく術も奪われてしまった。社会的動物である人間が、他との関わりを拒絶した結果、自分の価値を認めてくれる存在も、コミュニティも失ってしまった。いつの間にか、共生していくはずの自分以外の人間は、自分の存在を脅かす脅威になってしまった。
必然的に国というシステムは一人一人を管理するために監視を強め、恐怖を餌に人を操作する。恐怖を克服するために武器を、金を、餌を、資源を…尽きることのない優秀なシステム。ごく一部の人間が牛耳る、人格・人権をもった企業が、政府が利権にしがみつきながら止まることなく暴走し続ける…そんなイメージの社会に、生きている。
一生このままだなんてごめんだ。…そう思ったとき、初めて自分と、自分以外の人間が関わる社会を、政治を理解できるような気がする。何とかしたい。
そのためにまずは、自分自身を、自分自分の存在意義を、自分自身が今いる国を、社会を、仕組みを理解しなければと気付く。それが今の枠組みの中での、ナショナリティの目覚めなんだと気付くだろう。